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最初はプライドのぶつかり合い!?セブンプレミアムを開発した侍たち

「なんで一緒にやらなきゃいけないの!?」

これは『セブンプレミアム』誕生の瞬間に立ち会った7人が、プロジェクトの説明を受けた直後に漏らした本音。今や3,460※以上のアイテムを展開するブランドも、その始まりは困難の連続だったのです。

セブン&アイグループが生み出してきた商品やサービスの中には、今では「あって当たり前」の存在となったものがたくさんあります。でも、その当たり前は、時には長雨に、時には嵐に見舞われながらも歩みを進めてきた人々がいたからこそ、生まれたものです。

そんな挑戦者たちの、今だから明かされる本音に迫るのが、アメノチハレ。
今回は、セブンプレミアム誕生の物語をお届けします。

※2024年8月末時点

スケールメリットを活かしてシナジーを創り出す商品を!

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2007年に発売された、初代セブンプレミアム。

プライベートブランド(以下PB)は、ナショナルブランドより品質が落ちる分、安い。

かつてそれは、小売業界の動かぬ常識でした。そんな常識を覆すべく「グループMD改革プロジェクト」が始動したのは、2006年の秋。旗揚げ役となったのは、当時のヨークベニマル社長(現・名誉会長)の大髙さんでした。

セブン&アイ・ホールディングス 執行役員 グループ商品戦略本部長の大竹さん(当時ヨークベニマル食品事業部長)はこう振り返ります。

「あの頃はちょうど、セブン&アイ・ホールディングスが設立されて1年ほど経った頃でした。グループのスケールメリットを活かした、価値のある商品をつくろう、という提案から始まったんです。でも、それはかつてない挑戦でもありました」

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集められたのは、異業態からなる“7人の侍”

その挑戦のために選ばれたのが、セブン&アイグループのコンビニエンスストア事業とスーパーストア事業から集められた7人の精鋭たち。後に“7人の侍”と呼ばれることになる彼らの一人、現在セブン&アイ・ホールディングス グループ商品戦略本部 商品調達部 シニアアドバイザーの長田さん(当時セブン-イレブン・ジャパン在籍)は、その時の様子を今でも鮮明に覚えています。

「2006年の9月30日に辞令をもらって、大髙さんに『本社の喫煙ルームに集合』と言われたんです。行ってみたら喫煙ルームが改造されていて、そこが事務所だったんですよ(笑)」

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大髙さんがプロジェクトの説明をして退出した後、7人が放った第一声は、『なんで一緒にやらなきゃいけないの!?』。

それまで、グループ会社同士で一緒に仕事をするという考えも前例もなく、同じグループでも自分の会社の情報は渡さないというライバル的なスタンスだっただけに、7人は険悪なムードに包まれました。

話せばわかる、話さねばわからない何ごとも

プロジェクト発足から1~2か月が経過しても、ほとんど会話はなし。そんな状況を見かねた大髙さんがメンバーに命じたのが、アメリカへの視察です。

長田さん

長田さん

視察初日は、日本での雰囲気を引きずっていました。ただ、視察中は嫌でも3食一緒にご飯を食べるじゃないですか。夜にはお酒も(笑)。気づけば会話が生まれ始めていて、最終日になった頃には、「よし、みんなでやるか!」と一致団結していました。

大竹さん

大竹さん

今思えば、コミュニケーションを取らざるを得ない状況をつくるのが、大髙さんの真意だったんでしょうね。

雨降って地固まる。
どうにかプロジェクトが動き出したものの、思わぬ関門が待ち構えていました。

立ちはだかる価格の壁。突破口は“お客様の立場で仕事をする”ことにあり

当時のセブン&アイ・ホールディングス 鈴木会長の指示は「全業態同価格で売れる価値のある商品づくり」。ところが、コンビニエンスストアとスーパーストアの間には、価格の壁が存在していたのです。

大竹さん

大竹さん

スーパーは値下げしますが、コンビニは価格を変動させない。価格帯も企業文化もまるで違うわけです。でも、鈴木さんには「価格を乗り越えた価値のある商品をつくれば、どの業態でも共通で売れる」という強い想いがあった。その難題を形にしなければならない現場は、いろんな意見が飛び交って大混乱でした。

グループを横断して販売するPBへ。
「価格を変えずにすべての業態で売る」という新しい挑戦には、従来の商品開発の常識を根底から覆すような発想が必要でした。

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2007年のセブンプレミアム発表会に掲示されていたパネル。この“7つのプレミアム”にたどり着くために、チームは奮闘を続けました。

大竹さん

大竹さん

昔のPBは安かろう悪かろう、のイメージが強かったんですよね。でも大髙さんは「それでは絶対ダメだ。明確なコンセプトと組織と仕組みがなかったら、絶対うまくいかない」と。品質は絶対に妥協せずに、価格は2割引かなきゃダメ、というのが最初のルールでした。

それは、羊華堂(現在のイトーヨーカ堂の前身)創業当時の“2枚儲け”にも通じる精神だったと言えるかもしれません。2枚儲けとは、1ダースの商品を販売して2枚分の利益しか取らないというもの。当時の小売価格よりも2割安い価格で販売されていたそうです。

その根底にあるのは、セブン&アイ・ホールディングスの「お客様の立場に立って」仕事をするという考え方です。

長田さん

長田さん

品質へのこだわりの一つは、製造メーカーを記載することでした。今では弊社以外のPBでも記載されていますが、当時は従来のPBの常識を打ち破るものでした。これによって、PBは知っているメーカーがつくっていて、非常に品質が良い、ということをお客様がわかるようになったんです。

大竹さん

大竹さん

アメリカのPBは、すべての販売責任を販売者が持つことが通常でした。ですが、常に鈴木さんから「常々お客様の立場に立って考えるように」と言われていた大髙さんは、その考え方を守り、販売者の責任そして製造者の責任を明確にしたんです。どこのメーカーがつくったものかは、お客様が知りたいことですよね。私も絶対に表示すべきだと思っていました。

コンビニとスーパー。それぞれが手を取り合い、見出した開発成功への晴れ間

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アメリカ視察での雪解けと、固まったセブンプレミアムの方針。あと少しで、セブンプレミアム誕生という“晴れ間”を迎えられるはずでしたが、商品開発は足踏みが続きました。

長田さん

長田さん

コンビニとスーパーの違いは消えませんからね。お互いの流儀を主張して、口論が絶えませんでした。でも、お客様の立場で考えたら、おいしくて安いものをつくりたいんですよ。目指す方向は一緒ですから、お互いの強みを活用することにしたんです。

コンビニの強みは、圧倒的な店舗数から生まれる販売力と、商品開発のノウハウです。

長田さん

長田さん

セブン-イレブンの商品部が開発に使っている、門外不出の“商品開発プロセスシート”を開示しました。セブン-イレブンの開発プロセスのノウハウの結晶ですから、これが大きな一歩になりましたね。開示に至るには、セブン&アイ・ホールディングス 井阪社長(当時セブン‐イレブン・ジャパン商品本部 本部長)の存在がポイントだったと思います。

対してスーパーには、商品に対する専門的な知識と食材の旬を見極める知見、そしてメーカーとの太いパイプがありました。この両者の強みを活かし合い、開発が本格化します。

大竹さん

大竹さん

当初は、ブランド力・技術力のあるメーカーさんは相手にしてくれませんでした。突破口になったのは『味の素』様のマヨネーズです。コンビニ事業で長くお付き合いさせていただいていますので、そのご縁もあったと思います。また、コンビニの販売力があることで、スーパー側での交渉が進んだと思います。お互いの長所を認め合う体験を重ねて、どんどん一枚岩になっていきました。

セブンプレミアムの晴れ間が、いよいよ見えてきました。

49商品の船出。評価は意外な場所から。

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セブンプレミアムの発表会に参加した長田さん。待ちに待ったお披露目に、やや緊張の様子?

2007年5月に最初に世に送り出されたセブンプレミアムは、49商品。各事業会社の自信のある強い商品を出そうと、たくさんの候補がありましたが、味や原材料、価格面で協議を重ねた結果、品数が絞り込まれていったそうです。

また、なんと最初はセブン-イレブンでの販売はなく、スーパーのみ。2007年8月にセブン-イレブンでも販売開始しましたが、調味料や嗜好品に絞った6アイテムというスモールスタートでした。

長田さん

長田さん

正直、ショックでしたね…でもね、セブン-イレブンでパートタイマーで働く従業員の方々が、セブンプレミアムの販売を何よりも喜んでくれたんですよ。「いつも仕事が終わったらスーパーに行っていたけれど、ここで買って帰れるからすごく楽になった」って買ってくれて。本当にうれしかったし、やる気に火がつきました(笑)。

と、長田さんは最初の“晴れ”の瞬間を振り返りました。

その後、主婦や高齢者からも支持を集め、セブンプレミアムは着実に根づいていきました。

ですが、成長の先にはまた別の壁が待ち受けていました。お客様の立場に立つのはもちろんのこと、変化していく社会の声にも応える。さらに、その先の大きな晴れ間を目指して――。第2回は、セブンプレミアム誕生後のアメノチハレをお届けします。

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