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鉄拳の「私のめざめ」。自分の挫折を全部混ぜたら唯一無二の「自分」にめざめた

人それぞれにある「めざめ」の瞬間。その無限大の可能性を応援する「asupresso」がお送りするコラムシリーズ「私のめざめ」では、毎回スペシャルなゲストに「めざめ」にまつわる思い出や考えを自由に書いて寄せてもらいます。今回筆を執ってくださったのは、お笑い芸人・パラパラ漫画家の鉄拳さんです。

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鉄拳(お笑い芸人・パラパラ漫画家)
1972年、長野県大町市生まれ。26歳の時、プロレスラーの格好をしてスケッチブックに描いた漫画を説明するネタでデビュー。感動を呼ぶパラパラ漫画で再ブレーク。代表作は夫婦の愛を描く『絆』や『振り子』、映画にもなった『家族のはなし』など。ミュージックビデオも多く手掛ける。

漫画、プロレス、滑舌。挫折を混ぜたら「鉄拳」になった

子どもの頃から、ずっと漫画家に憧れていました。少年ジャンプを読んでは、コマ割りやセリフを真似して、自然と漫画を描き始めていたんです。

初めて漫画を投稿したのは、高校1年の冬休みです。ヤングマガジンのちばてつや賞に出したら、いきなり期待賞。「あ、俺いけるじゃん」って調子に乗りました。でも次の作品は「全然面白くない」とバッサリ。最終選考にも残らず、一気に現実に引き戻されました。

不思議なもので、夢から覚めるとまた次の夢を見るんです。今度はプロレスラー。高校3年の途中から東京の道場に通い、プロテストにも合格。「やった!」と思ったら、なぜか僕だけ選手ではなくレフェリー採用で。景色が一気に色あせて、その夜、合宿所から逃げ出しました。

長野に戻って建設会社で働きましたが、もう2回も挫折していて、この先何をやればいいのか途方に暮れていました。そんな時、定食屋でメニューを迷っていた僕に、親方が言ったんです。「毎日1個ずつ食べてみろ。そうすりゃ好きなものが見つかる。仕事も同じだ」って。

その言葉に背中を押されて、22歳でまた東京へ。俳優を目指して劇団のオーディションを受けたら合格して、「才能あるのかも」なんて思いました。でも、滑舌が悪すぎて何をやっても笑われ、「向いてない」と言われてまた挫折。

当時は「ボキャブラ天国」が流行っていて、お笑い芸人が人気でした。ライブ会場には女の子がずらっと並んでいて、正直、羨ましかったです。そこで「お笑いなら、自分にも何かできるかも」と思い、軽い気持ちでオーディションに向かいました。ネタもろくに考えず、アドリブで。

それから2年間ぐらい、いろんなオーディションを受けたり相方を探したりしたけど、「ピンでやれ」って言われた時にふと思ったんです。僕は、漫画が好きで、プロレスが好きで、滑舌が悪い。だったら全部混ぜればいいんじゃないかって。

そうして生まれたのが、逆モヒカンのスタイルでロード・ウォリアーズのメイクをした「鉄拳」というキャラクターでした。

最初は「気持ち悪い」「見たくない」と言われましたが、だんだん笑いが起こるようになり、ついにお笑いライブで優勝。その瞬間「あ、これだ!」って。初めて、自分の居場所が見つかった気がしたんです。

何もなくなった先にあった「パラパラ漫画」という表現

僕は「こんな○○は○○だ」というフリップネタで知られるようになりましたが、このネタにたどり着いた時、初めて「ウケる快感」を味わいました。仕事も一気に増えました。

ただ、風向きは変わります。「一発屋」と呼ばれ、次の世代が次々に出てきて、仕事が少しずつ減っていきました。自分では走り続けているつもりでも、世間の時計だけが先へ進んでいたんです。

営業も電話も不慣れで、体調も崩し、スケジュールは真っ白。そんな時、博多華丸・大吉の大吉さんと食事をする機会があり、「事務所を探している」と話したら、「じゃあ吉本に来なよ」と言ってくれて。それで吉本に入り、そこから2年、ライブや営業に必死で取り組みました。

でも、ヒットしなければ仕事は増えない。この世界で10年後も戦えるかと考えたら、正直、無理だと思いました。マネジャーに「吉本を辞めます」と伝えた直後、東日本大震災が重なり、本当に何もない時間が訪れました。
そんな時に舞い込んできたのが、パラパラ漫画の仕事です。「残り1カ月しかないけど、できる?」と聞かれて、「できますよ」と答えました。

最初に作ったのは、吉幾三さんの『俺ら東京さ行ぐだ』の映像。ギャグテイストで、「こんな村は嫌だ」という自分のネタも忍ばせました。それを沖縄国際映画祭で流したら、周りの芸人さんが「めっちゃいいじゃん」と言ってくれたんです。

ほどなくして、テレビ局から「パラパラ漫画の選手権に出てみない?」と声がかかり、そこで優勝しました。仕事はすぐに増えたわけではなく、最初は2〜3カ月に1本ほど。それでも、震災後に「人を元気づけるものを」と言われて描いた『ツナガル』が注目され、次は本格的な大会で『振り子』を描いて、また優勝しました。

『振り子』を誰かが勝手にYouTubeにアップして、1週間で300万回再生されました。英語のコメントが並び、BGMに使ったイギリスのロックバンド・MUSEのファンにも届いていました。

そして、まさかのMUSEから「公式MVにしたい」という話が来て……そこから、空気が一気に変わっていったんです。

人生の地図は、迷った分だけ広がっていく

僕が描けるのは、自分が見たり経験したりしてきたことだけです。『振り子』も、うちの家族がモデルです。建設現場で働いたこと、怒鳴られたこと、家族をないがしろにしてしまった後悔、そして挫折。そういう苦い記憶を、全部パラパラ漫画にしてきました。

今でも、3回もの挫折を越えられた理由を考えますが、当時よく聴いていたのがCOMPLEXの「RAMBLING MAN」という曲でした。<走り出さなきゃ始まらない><たかがおまえの事なんて 世の中誰も知りやしない>という歌詞に、何度も背中を押されました。誰も僕のことなんて知らないんだから、恥ずかしいことをやってもいい。とにかく、やってみればいいじゃんって。

僕は「道を迷えば道をおぼえる」という言葉が好きです。遠回りして、失敗して、迷った分だけ、人生の地図が増える。挫折だらけでしたけど、そのおかげで自分の居場所にめざめた。うまくいかなかった経験こそが、自分の一番の財産なんだと思っています。

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