松山大耕の「私のめざめ」。禅僧としての道を歩み、心から尊敬できる師がいる幸せにめざめた
人それぞれにある「めざめ」の瞬間。その無限大の可能性を応援する「asupresso」がお送りするコラムシリーズ「私のめざめ」では、毎回スペシャルなゲストに「めざめ」にまつわる思い出や考えを自由に書いて寄せてもらいます。今回筆を執ってくださったのは、妙心寺退蔵院の副住職、松山大耕さんです。
松山大耕(妙心寺 退蔵院 副住職)
1978年京都市生まれ。2003年東京大学大学院 農学生命科学研究科修了。埼玉県新座市・平林寺にて3年半の修行生活を送ったあと、2007年より退蔵院副住職。日本文化の発信・交流が高く評価され、2009年観光庁Visit Japan大使に任命。また、2011年より京都市「京都観光おもてなし大使」。2016年「日経ビジネス」誌の「次代を創る100人」に選出され、同年より「日米リーダーシッププログラム」フェローに就任。著書に『大事なことから忘れなさい~迷える心に効く三十の禅の教え~』(世界文化社)など。
勝手に決まっている将来に納得できなかった子ども時代
私は京都にある臨済宗の大本山妙心寺の子院の一つ、退蔵院の長男として生まれました。妙心寺派の寺院は全国に3,400カ寺近くもあり、退蔵院は600年以上の歴史があります。しかし、私は最初からお坊さんになりたかったわけではありませんでした。
私は12月4日が誕生日なのですが、この日は「臘八大摂心(ろうはつおおぜっしん)」という年間で最も厳しい修行のまっただ中。実家の寺の隣には、泣く子も黙る、天下の鬼僧堂「妙心寺専門道場」があり、毎年この時期になると、ぶん投げられる人が出てきたり、大きな怒鳴り声が聞こえたり。幼い頃からそんな光景を目の当たりにしてきました。「何なんだ、これは」正直に言って、幼心でもそう思っていました。誤解されないように言っておきますが、今は昔と違って暴力的な行為はなくなり、純粋に厳しく良い修行をされているなと思います。しかし、当時は「こんな修行をしなきゃいけないなら、お寺の跡継ぎなんて絶対に嫌だ」と思っていました。
また、学校に行くと友人からしょっちゅう尋ねられました。「なんで勉強なんかしてるん?将来、寺を継ぐんやろ?勉強しても意味ないやん」自分がどれだけ努力をしても、勝手に自分の将来の職業が決まっている。それがどうしても納得できませんでした。
ちょっと突き抜けた和尚さんとの出会い
心境が大きく変わったのは大学院の時です。当時、私は東京大学大学院の農学生命科学研究科で研究していました。農家に半年住み込んで研究する機会があり、長野県の最北にある飯山という町で過ごすことになりました。世界でも有数の豪雪地帯です。「ここにも妙心寺派のお寺があるだろうか」ふとそう思って、調べてみたらたった一軒見つかって、そこが正受庵という、のちに私の心の師匠となる原井寛道和尚が護(まも)っておられたお寺でした。
このお寺は臨済宗の中興の祖と言われる白隠禅師ゆかりの寺として知られていますが、冬になると雪が3メートルくらい積もって、2階から出入りしなければならないような雪深いところ。そんな過酷な環境なのに檀家さんは一軒もないし、観光もやっていない。
では、どうやって過ごしておられたのかというと、托鉢(※1)だけでお寺を護っておられました。この時代に托鉢だけで寺を護るというのもすごいことですが、中越地震・中越沖地震という2度の大きな災害で傾いた本堂も、托鉢で貯めた浄財で修繕された。この原井寛道和尚さんは、今まで見てきたお坊さんとはまったくスケールが違っていました。
※1……托鉢(たくはつ)。僧尼が修行のため、経を唱えながら各戸の前に立ち、食物や金銭を鉢に受けてまわること。
たとえば、あるおばあさんが亡くなられた時、「菩提寺ではなく、正受庵の和尚さんに葬式をやってもらいたい」と遺言されたため、親族の方が相談に来られたことがありました。皆さんが帰られたあと、和尚さんが真剣な顔をして私のところにいらっしゃいました。そして「悪いけど、お葬式のお経を全部忘れたからかわりにやってきてくれないか」とおっしゃったのです(笑)本当にびっくりしましたが、あとからよく考えたら弔いは重要だけれども、お葬式をすることが僧侶の最も重要な仕事というわけではないですよね。
では、何が僧侶の役割なのか。飯山に住んでいるある詩人が和尚さんのことを詠んだ詩があります。その中に「寛道さんの托鉢の声を聞くと、飯山の町に安心が広がる」という一節がありました。私はこれを読んだ時、「そうか、安心を与えるのがお坊さんの本当の役割だったんだ」と、心の底から納得できました。私は器も小さいですし、立場も違いますので、寛道和尚さんのような立派な禅僧にはなれません。しかし、安心を与えるのが僧侶の役目だという教えは今でも私の一番大切にしているものです。
寛道和尚さんのことをひと言で表すなら、「この方からは何も奪えない」と思わされるような人。お寺はいつも開けっ放しで鍵もかけておらず、誰に会ってもニコニコしていて、町の人全員に慕われている。残念ながら数年前にお亡くなりになりましたが、生前から和尚さんが托鉢している銅像が飯山の駅前に立ってしまうような、ちょっと突き抜けた方でした。「こんな立派な方がおられるなら、この世界でチャレンジしてみる価値があるんじゃないか」それが禅僧を志した最も大きな理由ですし、僧侶になるという大きな「めざめ」の瞬間でした。
少しでも社会に安心が広がるように
「お坊さんになって、一番良かったことは何ですか?」先日、中学生から質問をされました。確かにお坊さんになって大変なこともありますが、素晴らしいと思うこともたくさんあります。私が一番良かったなと思っていることは、私たちの周りには尊敬できる「先生」が複数いらっしゃる、ということです。
お坊さんは悩んだり辛いと思ったりしないんでしょう、と誤解されることがあります。しかし、実際はお坊さんだって、たまには悩んだり、辛い思いをしたり、逃げ出したい気持ちになることだってあります。しかし、禅の世界には長年修行をされた、老師と呼ばれる素晴らしい先生方がたくさんいらっしゃいます。お話を聴きにうかがうと、自分がこんなことで悩んでいますなどと言わなくても、ちゃんと察してくださり、不思議と自分にぴったりのお話やアドバイスをいただくことができます。
皆さんも学生の時には身近に先生がいらっしゃって、勉強を教えてもらったり、人生のアドバイスをいただいたりした経験がおありでしょう。しかし、社会に出てから、先生を身近に見つけることは大変難しいと思うのです。大人になっても、自分たちの近くにそういった心から尊敬できる先生たちがいらっしゃる。それは本当に心強いものですし、人生の喜びの一つだと感じています。
時代の変化によって、人々が感じる不安の形も変化します。しかし、社会に安心を与えるという宗教の役割は変わりません。常に、社会に目を向け、自らがそこに飛び込み、少しでも社会に安心が広がるように努力する。それが、現代の僧侶に求められる姿勢ですし、私もいつか、誰かにとってそんな存在になれたらいいなと、微力ながら日々精進しています。

